就職
- チップ
- 2020年5月13日
- 読了時間: 3分
基本的に運用業界での話を書こうと思っているが、少し遠回りしてどうしてこの業界に携わることになったのか触れておく。
「就職しても東京を離れたくない。。人見知りだから知り合いのいない地方ではつらいし、海外勤務なんてダメ、絶対!」
ということで1986年、大学4年の私の就職希望は転勤の可能性が低くて、楽して給料がまずまず高い会社。
「だったら信託銀行じゃねえか?」と野球部の先輩のアドバイス。「信託は都銀みたいに支店が多くないし、仕事も緩めでチョンボだぜ」
当時学内では「チョンボ」という言葉が流行っており、出席しなくても単位が楽にもらえる授業は「チョンボな」と例えられるなど、魅惑の形容詞であった。因みに反対語はシビアで、上級格はそれぞれ「ドチョン」「ドシビ」。
信託銀行の存在や業務内容など、部活と麻雀しかしていない学生が知る訳もないが、業界や企業調査をすることもなく丸呑みで安易に志望業界が決定。そんな男が後に「企業調査を重視した運用」を偉そうに続けることになるとは。。
そんな訳で第一志望は越後信託銀行(以下仮名)。信託は当時7行あったが、チョンボさとブランドのバランスが一番良いと踏んだ。
第二志望は首都ガス。基本的に東京近郊から出るリスクが極めて低いのが魅力。
第三志望は岩崎信託銀行。何といっても高級ブランド「岩崎」である。
この1986年は就職戦線が特異だった年で、優秀な学生は解禁初日にほぼ一発で決まってしまい、そのまま拘束される流れになっていた。
私は朝イチで越後信託を訪問し熱意を訴えるも、すぐに釈放。翌日不採用通知あり、後に野球部の優秀な友人が内定と判明。
その後首都ガスに出向くも、あからさまに冷たい面接官の対応に通知を聞くまでもなし。後に同じゼミの超優秀な友人が内定と判明。
岩崎信託は内定もらえないままダラダラ面接すること4-5回。耐えきれなくなり最後の賭けで「他の会社から決めてほしいと言われてるんですが」とブラフをかけてみると、「どうぞどうぞ」とダチョウ俱楽部ばりのつれないお言葉。
これも後に聞いた噂では、各社とも在学中取得したAの数(各単位の最優秀評価)が最低限の採用基準となっており、越後信託クラスで20個、首都ガスで30個以上が目安だとか。
因みに私のAの数はその時点で5個で、内訳は体育1年、体育2年、体育3年で合計3個、加えて所属ゼミの労働経済学(ゼミ生全員A)、受講した学生全員Aという奇跡の仏文学がそのすべてであった。まあ最初から調べとけという話ではある。
3日も経つと周りの友人はもうかなり内定しており、「就職ってこんなに大変だったのか。。」と絶望と疲労を背負いあてもなく灼熱の街を歩く(解禁日は真夏の8/20)。
すると偶然、関西系のドシビ信託銀行(私見)に入社した野球部の1年先輩に路上でばったり会う。流れ的には「すいません先輩、ドシビ信託に入れてもらえませんか!!」と懇願する場面であるが、私の口から出た言葉は「すいません先輩、安田信託ってどこにあるんですか。。」
優しい先輩は苦笑しながら「ああ、あそこだよ」とその場からすぐ(呉服橋)の本店ビルを指さした。
そしてその2時間後、私の就職先は内定したのである。
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